わたしと子どもの備忘録

育児、聴覚障害関連エピソードを載せています。

「見る」と「聞こえる」は当たり前だけど全然違う

手話サークルに通っていますが、最近思うことがあります。手話サークルに通っているろう者の中には、発表や会話を見ていなかったり下を向いている人がいます。会話が始まっていることすら気づいていないのか、会話に興味がないのか、会話が面白くなかったのか、その辺はわかりません。が、「見る」というのは「聞く」に比べてハードルが高いなと思っています。

 

当たり前ですが、「聞こえる」という言葉の通り、自ら聞きたくないことも聞こえてくるし、耳をふさがない限りその場にいればいいことも悪いことも耳に入ってきます。でも「見る」必要がある手話の場合、なんとなく見えてくることはありません。自ら情報を取りに行こうと見なければ、トントンと肩を叩いてもらわない限り気づかないわけです。

 

私は子どもに話しかけるとき、トントン肩を叩いたり、床をどんどん鳴らしたり、机をコンコン叩いたり、電気をつけたり消したりして、「話すから見て」と視線を合わせてから会話を始めます。親子なので、相手の機嫌など無視して呼ぶことができますが、手話サークルのろう者となると話は変わってきます。

 

個人の発表のような感じでサークルはすすみます。以前私の発表の時、ろう者が下を向いていたので、両手をブンブン振って「話しますよー」といっても、気づいてくれませんでした。するとサークルの中心の人が「見てないからいいよ」と言うので、私は話し始めました。私の話の内容がおもしろいかどうかはさておき、それ以前に周りが情報を伝えるかどうかを判断してしまうのは怖いなと思いました。私の話を聞いて下を向いたのなら、聞く気がなかったでいいのですが、話していることすら気づかない、というのは聴覚障害あるあるだなと感じました。アンテナを常に張り続けるのは難しいし、仕方ないのかなとも思います。

 

まぁでもこういうことは多いです。すべての情報を100%伝えることは不可能です。子どもを見ていても半分以下の情報量だろうなと思うことは多いです。家庭内で私の影響が及ぶ範囲では、嫌なことも伝えるべきと、弟が言ってくる暴言をわざわざ私が伝えたり、夫が言う憎まれ口をいちいち私が伝えたりしています。もちろん、子どもは不機嫌になります。でもそう言われていることすら気づかないことのほうが嫌だなと、家の中に限っては私は思います。

 

 

 

 

 

これだけ手話が普及し、認知度も上がり、理解も進んだ今ですが、聞こえる人にとって話しやすい聞こえない人というのは、口話が理解できるろう者なのではということです。聞こえる人は、聞こえない人が口を読めることを期待しますし、伝わらないときは口形をしっかり見せてということをします。でもそれは聞こえない側が口話を理解している必要があるので、やはりろう者側への負担は大きいなということです。