わたしと子どもの備忘録

育児、聴覚障害関連エピソードを載せています。

お遍路さん

特別お題「今だから話せること

 

学生時代は、デートはお遍路さんみたいだなと思っていた。映画に行って喫茶店に行って居酒屋に行って知らない街を散歩して、学校に行ってバイトに行って寝て起きてぐるぐるぐる繰り返す。この先に何があるか分からないし不透明なのに、ぐるぐるぐるぐるスタンプラリーみたいにデート先を回っていた。

 

水道橋に行って、渋谷に行って、新宿に行って、横浜に行って、国分寺に行って、吉祥寺に行って、中央線沿線を歩いて、神楽坂に行って、銀座に行って、たまに水族館に行って、ぐるぐるぐるぐる。学生だから結婚願望もないし、でも一緒に時間は過ごしたいし、じゃあどうするかというとお遍路さんをするしかない。あちこちぐるぐる回るしかない。自分の家に呼んだりということももちろんあったけど、東京の端っこと端っこに住んでいたので、家でまったりした思い出はあまりない。

 

数十年前の恋愛を思い出しているときに、ふと「この先何があるんだろ」と考えたことを思い出した。だれと一緒にいるとき、どんなときにこんなことを思ったのかはよく覚えていない。もしかしたら、あまり好きではなかった人と一緒にいるときで、退屈に自分の状況を客観視するあまりそんなことを考えたのかもしれない。もしかしたら、すごく好きな人と一緒にいるときに、デートの行き先に困って「お遍路さんの先に何があるんだろう」と思ったのかもしれない。

 

吉祥寺も行ったし、国分寺も行ったし、新宿も行ったし、渋谷も行ったし、池袋は苦手だったけれど、恵比寿にも行ったし、なんせあちこち行った。散歩が好きだったからだ、私が。ああ、思い出してきた。当時好きだった人と一緒にいるときに思ったんだった。

 

ゴールを目指してお遍路さんをするのではなく、お遍路さん自体を楽しめばよかったんだ。お遍路さんだって、どこかゴールを目指すことが目的なのではなく、88か所回ることで願いがかなったり自分を見つめ直す機会を得るんだもんな。当時はデート自体を楽しめていた時ももちろんあったけど、目的を探してしまったときもあったなぁ。

 

「マグロみたいだな」と言われたこともあるが、回遊魚みたいにずっと動いていないといけない性分で、まったりとかゆっくりが上手ではなかった。時間も若さもエネルギーもあるし、お金はなかったけど。

 

今はお遍路さんの重要性はよく分かる。目的がなくても、日々毎日を繰り返していくことがどれだけ素晴らしいことでかけがえがないか。何も変化がなくても、小さな変化があっても、生きていることがどんなにステキなことか理解している。お遍路さんはその過程を楽しむものなのだ。

 

当時の自分に伝えたい。デートはお遍路さんであり、ゴールにたどり着くよりその過程を楽しむものなのだと。